2009年06月29日

中央ユーラシア遊牧民の民族概念

遊牧民の集団では同盟の締結、指導者家系の婚姻による成員及び家畜群の持参金的分割合流、あるいは政治・軍事的理由での他集団の配下への統合など言語や祖先系譜を異にする他集団との融合が頻繁に生じる。また、指導者家系における新世代の独立などによる集団の分裂も日常的である。そのため、歴史的に祖先、言語、文化を共有するとされる近現代的民族観と、遊牧民における集団の統合意識、同族意識にはきわめて異質なものがある。例えば、現在中央アジアに分布する多くのテュルク系「民族」、例えばウズベク人、タタール人といった遊牧民に由来する「民族」の多くが中世のモンゴル帝国においてチンギス・カン一族やモンゴル高原出身の武将の指揮下に再編成された中央アジアのテュルク・モンゴル系の遊牧民集団に起源を持つ。
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実際には個々の遊牧集団は上記のように移動生活成員自体が複合的な種族構成を持つのみでなく、冬営地における夏季の留守番要員や農耕要員を包含する。さらに遊牧国家クラスの大集団になると支援基地として都市を建造してそこに行政事務をつかさどる官僚組織や手工業組織を配するなど多種族複合的な性格が強い。この種の遊牧国家の人造都市の特徴は権威の象徴としてのモニュメント的な見せる都市としての意味合いが強い。その典型がウイグルのオルド・バリクや元の大都である。

中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴として、数々の点が指摘されている。

徹底した実力主義
指導者は、能力のある者が話し合いで選出される
農耕民に比べて女性の地位が高い
能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する
男女を問わず騎馬と騎射に優れる、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結している

2009年06月11日

回想法(reminiscence/life review)

回想法(reminiscence/life review)(かいそうほう)とはアメリカの精神科医R.Butlerによって創始された心理療法である。主に高齢者を対象とし、人生の歴史や思い出を、受容的共感的な態度で聞くことを基本的姿勢とする。個人に対して1対1で行う個人回想法とグループで行われるグループ回想法に分けることができる。

回想法は心理療法の一つとしての利用のみならず、アクティビティ、世代間交流や地域活動として利用されることが多い。

心理的問題を持つ高齢者に対し、その問題解決を目的としてクリニック、カウンセリングセンターなどで行われる。 主に臨床心理士や精神科医、訓練を受けたセラピストが行う。 認知障害・記憶障害を持つ人に対しては回想を促す刺激(五感に働きかけ、記憶を呼び起こすもの)を用いることが多い。
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認知症の予防や進行抑制としての回想法 [編集]
 回想法は、楽しいおしゃべりを基本としているため、場所や費用を必要としない。そうしたことから、公民館や敬老館などで楽しまれているばかりか、茨城県竜ケ崎市回想法センターでは、来館者を対象に回想法を実践している。また、介護予防のなかでも認知症予防を実践している東京都葛飾区では、回想法教室を開催して認知症の予防を実践している。

効果 [編集]
老年期に人生を振り返り、自己の人生を再評価することで、自尊心を向上させる。 高齢期特有の抑うつ状態の緩和

領域別認知症検査 [編集]
認知症の検査法として長谷川式が有名であるが、領域別差異がわからない。DCL(初期痴呆チェックリスト)は、記憶領域と心的操作領域を別々に測定するために、回想法によって記憶が刺激されることによってもたらされた効果を測定できる。

基本的姿勢 [編集]
受容的共感的姿勢での傾聴。 回想法は、カウンセリングと違って、生きてきた軌跡の中でも、明るく輝いていた時代の内容を話題とする。よって「会話」がとても重要となる。回想法的インタビュアーのことを「レミニシャン」と言うが、相手の錆びた古い記憶を引き出すコミュニケーション技術が必要。また、10歳?15歳の記憶が鮮明であると、ADLが維持されている臨床状況から、その時代の記憶を刺激することが回想法の基本姿勢とされる。

2009年06月07日

共同危険型の盛衰

1980年前後には共同危険型暴走族は最盛期を迎えた。警察庁の1980年11月調査では、全国で754グループ、38,902名の暴走族が確認された。これは1980年6月に比べて10.8%増の数字である(女性暴走族は948名から1,426名に増加)。低年齢化も進み、15歳以下の構成員は、1976年当時の47名から1,208名へと約25倍になっていた。1981年にもグループ数は更に増加し、835グループが確認され、8,255名が検挙された(前年比82.5%増)。

彼らは、パンチパーマに剃り込みを入れた髪型に、特攻服に刺繍などで飾り付けをしたものを着て、自分たちのことを「ツッパリ」という語で呼ぶようになり、徒党を組んで集会などを行った。この後、「ツッパリ」は暴走族以外にも拡大して、次第に不良行為を行う事で自己を顕示する少年少女らのスタイルとして定着するようになる。ツッパリファッションを身にまとった「リーゼントロック」[6]音楽バンドが、当時の管理教育に反発する少年層の間で大流行し、ツッパリファッションを子猫に着せた「なめ猫グッズ」が発売されたのもこの時期である。

しかし暴走族文化の拡大とともに、本来は「10代の若者が、学校や社会に反発していることを示す行動様式」とされた共同危険型暴走族は、次第にOBを含めた上下関係や既存の暴力団との繋がりを持ち、グループ内の制約遵守や規律を守らない構成員に対する制裁などの掟に、構成員はがんじがらめとなってきた。若者を取り巻く環境の変化に伴って、この厳しい伝統的拘束を嫌う傾向が青少年層に強く見られるようになる。
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また、こうした主従関係の維持や、敵対組織に対抗する用意などには、強力なリーダーシップを持つ幹部主導者を必要とするが、大きな責任を背負って組織を運営していくほどの能力と意欲を持つ者が減少し、地縁関係で結ばれる先輩後輩関係の希薄化、集団行動への忌避意識の高まりといった風潮の影響も受け、組織を編成して暴走行為を行うスタイルは成り立ちにくくなってくる。

1980年代半ば以降、大都市においては、厳しい上下関係を嫌う者たちが、アメリカのストリートギャングを真似た「カラーギャング」や「チーマー」と呼ばれる集団へ流れる傾向が見られた。1990年代以降では少年向けファッション誌等の登場に代表されるファッション性重視の少年層増加に伴い、旧来の特攻服をまとったスタイルに垢抜けない「時代遅れ」的なイメージを持つ傾向が強まり、暴走族文化は若者の間で次第に廃れていった。

2009年04月24日

ヨーガ・スートラ第2章

最初に瑜伽として日本にヨーガが伝わったのは、大同元年(806年)、唐より帰国した空海にまでさかのぼる。その後、真言宗や天台宗の「護摩」、「阿字観」等の密教行法として、現在に伝わっている。禅宗の座禅も、ヨーガ・スートラ第2章に記述されるディヤーナの音写である。

現在巷で流行している健康法としてのヨーガは昭和時代に伝播したが、伝統的ヨーガを導入した新興宗教団体オウム真理教による一連の事件の影響で、一時下火になった。

だが2004年頃から健康ヨーガは再びブームとなり、ダイエット方法の1つとしてテレビで紹介されたり、CMで使用されることが増えた。フィットネスクラブなどでは、エアロビクスと同じようなスタジオプログラムの1つとして行なわれている。この流行はインドから直接流入したものではなく、アメリカ、特にニューヨークやハリウッドでの流行が影響したものと考えられ、近年では同流行がインドへ逆輸入されている。

なお、伝統的ヨーガ系のグループには現在でも、イニシエーションを行なうなど宗教団体的側面を持つものもある。

内容
主とする座法はパドマ・アーサナ(蓮華座)という結跏趺坐である。

人体内に大きな6または7つのチャクラ(Chakra、輪、車輪)と小さなチャクラがありそれを目覚めさせれば、またはクンダリニーを体内の脊椎にそって上昇させると悟りがひらけると一部の人たちは言うが、全くそういうことはない。実際は、タイティリーヤ・ウパニシャッドで説明される、生気レベル(プラーナーマヤ・コーシャ)の覚醒にすぎず、修行の入り口に立ったにすぎない。また、生気レベルの覚醒それ自体は霊格の向上をもたらさず、あくまでもカルマ・ヨーガの実践や世俗との係わりの中での人格の向上や、その他のヨーガを総合的に実践することにより、霊格は向上していくものと心得るべきである。

例外として、幾世にも渡り順調に霊性修行を続け霊格を向上させた成熟した特別な魂のみ、今世で厳しい修行を行うことにより猛烈なクンダリニーエネルギーを急上昇させることができ、そのときにのみサハスラーラを完全開化させ、解脱することが可能となる。

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種類

伝統的ヨーガ
アシュタンガ・ヨーガ (Ashtanga yoga)
現在のパワーヨーガの源流ともなっているヨーガ。呼吸と共にアーサナを行う。しかし実際はラージャ・ヨーガの修行体系をいい、このことはヨーガ・スートラ第2章29節に記述されている。

ハタ・ヨーガ (Hatha yoga)
「ハ」は太陽、「タ」は月をそれぞれ意味し、「ハタ」で「力の」という意味があるとされる。アーサナ(姿勢)、プラーナーヤーマ(呼吸法)、ムドラー(印・手印や象徴的な体位のこと)、クリヤー(浄化法)、バンダ(制御・締め付け)などの肉体的操作により、深い瞑想の条件となる強健で清浄な心身を作り出すヨーガ。起源は紀元後10世紀-13世紀頃。ゴーラクシャ・ナータが開祖。『ハタ・ヨーガ』と『ゴーラクシャ・シャタカ』という教典を書き残したと言われているが現存していない。インドに於いて社会が荒廃していた時期に密教化した集団がハタ・ヨーガの起源と言われ、肉体的操作ばかりに重きをおかれることから、低俗なものとみられる。しかしながら、悟りに至るための補助的技法として霊性修行に取り入れるならば、非常に有効であるといえる。なお、スポーツのストレッチなどはこのヨーガのアーサナ(姿勢)に由来している。

2009年04月22日

イタリア半島のゴシック建築

イタリア半島では、概してゴシック建築への反応は冷淡なものであったが、フランシスコ会とドメニコ会の活動によって、13世紀中期から、北、および中央イタリアである程度導入されるようになった。

ゴシック建築の影響を受けたイタリア最初の建築物は、1228年に起工されたアッシジのサン・フランチェスコ聖堂である。ロマネスク建築に見られる単廊式の平面であるが、尖頭リブ・ヴォールトとこれを支える束ね柱、そして内部空間の一貫性は、ゴシック建築を取り入れた独創性の高いものとなっている。ただし、フランスのゴシック建築のように、薄い壁を形成するための構造的な努力はまったく見られず、また、フレスコ画を描くために都合が良いためと思われるが、イングランドのような壁を彫り込むような造形への関心も薄い。従って、サン・フランチェスコは、ゴシック建築というよりも、ゴシック建築の造形を取り入れることによってロマネスク建築の伝統から脱却した教会堂であると言える。

13世紀になっても、イタリアでは典型的なゴシック建築はめずらしい存在であった。1230年頃に着工されたパドヴァのサンタントニオ大聖堂はロマネスク建築とビザンティン建築の混成様式であるし、1250年頃に起工されたシエーナの大聖堂などは、ファサードを除くとほとんどロマネスク建築のままである。オルヴィエートの大聖堂も、ファサードは美しいゴシック芸術の作品であるが、内部はシエーナと同じロマネスク建築である。

ただし、ゴシック建築の空間が全く無視されていたわけではない。13世紀イタリアでゴシック建築とみなしうる教会堂がフィレンツェに存在する。ドメニコ会が1279年に創建したフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂は、以後トスカーナ地方で建設されるゴシック建築にきわめて大きな影響力を持った教会堂建築であった。側廊が高いため小さな丸いクリアストーリしかない身廊は、装飾がほとんどなく、柱間が広くとられているので、フランスのゴシック建築に比べてゆったりとして簡素な印象である。

アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート

サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のようなゴシック建築のスタイルは、以後トスカーナのゴシック建築に受け継がれた。これは1300年頃に設計されたフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂と、1294年に着工されたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の身廊を見れば明らかである。サンタ・クローチェ聖堂の造営はフランチェスコ会によるもので、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂には規模的にやや劣るものの、北ヨーロッパの大聖堂に匹敵する大きさである。シトー会の修道院建築から着想されたと思われるデザインで、これを構想したのはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と同じくアルノルフォ・ディ・カンビオであると考えられている。両教会堂の簡素で広々とした空間は、しばしばフランスのゴシック建築の美意識と対立するものとみなされ、ルネサンス建築の先駆けとも評される。1322年から開始されたシエーナの大聖堂拡張工事も、完成していれば、おそらくトスカーナのゴシック建築の最良の作品のひとつになったと考えられる。

北イタリアでは、14世紀初頭まで宗教建築そのものがあまり重要性を持たなかったが、ビザンティン建築の伝統から脱却しつつあったヴェネツィア共和国では、他の北イタリアに先駆けて、やはり修道会によってゴシック建築が導入される。14世紀初頭に起工されたドミニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂と、フランシスコ会により1330年頃に起工されたサンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ聖堂が、その代表的な建築物である。

14世紀後半になると、北イタリアでもようやく大規模な宗教建築が建立されるようになる。1387年には、イタリア・ゴシック建築で最も有名なミラノの大聖堂の建設が始まった。この大聖堂は、中世の建築物としては非常に珍しいことだが、設計過程から職人との詳細なやり取りまで、建設に関わる綿密な記録が残っており、イタリアのみならず、フランス、ドイツでのゴシック建築に対する認識を知ることができる。構造と美術的な審議は1401年から始まり、パリから招かれた審議員はフランス伝統の古典ゴシックの形態を、ドイツ人の審議員は突き抜けるような垂直性の高いプロポーションを、イタアの審議員は幾何学から導かれる幅の広いプロポーションを主張したことが読み取れる。結果的に、この大聖堂はイタリア独自のゴシック建築というよりも、各国のゴシック建築の美意識を取り入れた折衷的性格の強いものとなっている。しかし、1858年まで延々と工事を行ってきたにも関わらず、全体としての完成度はたいへん高く、19世紀に追補されたファサード部分もゴシック・リヴァイヴァルの最高傑作として名高い。

特徴
一般にゴシック芸術と呼ばれているものに一貫して用いられる形態的、図像学的な特徴はなく、実際にはゴシックとは、芸術史家たちによって慣習的に使用される概念である。今日においても、ゴシック建築の定義づけが行われているが、その議論は多角的かつ複雑である。

客観的な、最も馴染み深い特徴は内部的な高さと細さの誇張であり、簡単に述べると、必要以上に細い柱、石造天井、及びそれらを為し得る構造的特徴の組み合わせとなる。具体的に述べれば交差リブヴォールトとヴォールトの横への応力を支持するための側壁または控壁(バットレス)だが、これらはそれぞれ東方に起原を持っている。尖頭アーチはササン朝ペルシャ帝国において既に用いられているし、控壁はビザンティン建築においても見られる主要構造である。実際、ゴシック建築に特有とされる特徴は、ほとんどの場合、ゴシック建築において独自に発明されたものではない。ゴシック建築において重要なのは、これら技術的特徴ではなく、それぞれを組み合わせた独自の美的感覚や空間性にあると言えよう。

2009年04月05日

古代西洋音楽

古代西洋音楽(こだいせいようおんがく)とは6世紀以前の西洋音楽。楽譜が残されていないか、解読方法が知られていないため実際のところは明確でない。

古代ギリシアの音楽 [編集]

当時の絵画から、キタラー(竪琴)、アウロス(縦笛)、パンパイプなどが使われていたことがわかる。

古代ギリシアでは詩の朗読や劇の上演に際して音楽が演奏されたと考えられている。また、神を祭る儀式の場でも用いられた。劇に付随する音楽(歌唱)というアイディアは、後にイタリアのフィレンツェにおける古代ギリシアの音楽のルネッサンス、すなわちオペラ誕生のモデルとなった。

古代ギリシャでは音楽理論がある程度確立していたと考えられる。今日の音楽に関する用語はその多くを当時のギリシア語に負う。ピュタゴラスは音楽と数学は宇宙の秩序に通じると考え、正律音調を発見した。また竪琴をひいて精神を病む人に聞かせたといい、音楽療法の元祖とも考えられる。プラトンは『国家』3巻において、混合リディア調や高音リディア調は悲しみを帯びており、イオニア調やリュディア調は柔弱だったり、酒宴にふさわしく、ドリス調とプリュギア調は戦士にふさわしい、などと論じている。

ギリシア悲劇の合唱団について、ニーチェは『悲劇の誕生(音楽の精髄からの悲劇の誕生)』で論じている。

『アポロ賛歌』『ムーサ賛歌』『ネメシス賛歌』など楽譜の一部が伝えられるが解読方法は確立していない。グレゴリオ・パニアグワらによる復元演奏の試みと録音もあるが、演奏者の想像の域を出ていない。

紀元前8世紀頃になるとポリスが成立、発展し貴族による共和制のもと、種々の文芸が復興していった。ホメロスやヘシオドスらの叙事詩が盛んであり、その伴奏としてはフォルミンクスと呼ばれる4弦の小型の竪琴が用いられた。アウロスはまだ異国的な楽器として一般的にはあまり用いられず、またサルピンクス(トランペット)も同様で、紀元前7世紀以降にこれらの楽器は普及していくことになる。この時期の音楽のあり方として「詩」と「音楽」がほとんど同一視されたことがあげられ、しばしば振り付け(舞踏)を伴った。祭儀的な音楽は「政治的なイベント」や「コンクール」へと次第に変容していき、その競技会においてはキタロディア(キタラー伴奏の賛歌)が競技目的のジャンルとして初期に確立した。元来は王宮の娯楽でもあった「競技会」は、宗教的なパフォーマンスから祭儀的な性格が取り除かれていき、代わりに「音楽的」「美的」な価値基準を確立していくことになる。

紀元前7?6世紀になると僭主政治が横行するが、その僭主の宮廷では芸術家らが熱心な保護を受けた。サッフォーやピンダロスらが叙情詩を盛んにつくり、悲劇も台頭してくる。アウロスが一般化し、キタラーは7弦化される。特にアウロスはその神秘的で情緒的な音色ゆえに、デュオニソス神の祭儀には不可欠な楽器となる。僭主政治の開始が遅れたアテネでもパンアテナイア祭が盛大に行われるようになり、4年ごとに運動と音楽の競技会が開かれた。音楽の競技会では専門家に指導を受けた一般市民の演奏家や合唱団が、生活の一部としてその技術を争った。キタラー賛歌、アウロス賛歌、キタラー独奏、アウロス独奏に加え、デュオニソス賛歌の演奏や悲劇も上演されるようになる。

紀元前5世紀には民主政治が発達するとともに、そのもとで文化の諸領域が世俗化していった。これに反動するかのように知識人らは懐古趣味と非現実的抽象化の傾向に陥った。前世紀に続く悲劇の隆盛は、詩と音楽の関係に様々な論争を呼び「芸術論」を生み出した。これにより、音楽は伝来の制約や規範、秩序から逸脱していくことになる。例えば、キタラーの多弦化、多弦ハープの流行と音階の混用、キタラー伴奏歌曲とアウロス伴奏歌曲の無境界化などを引き起こし、ついにはパンアテナイア祭においてサチュロス劇が上演されたり、リラを持ったヘラクレスまで登場することとなった。一方で、音楽が「演奏」から「鑑賞」の対象へと変化していく。また、プラトンやアリストテレスはその倫理学において、教育論や国家論の観点から音楽が規制されるべきだと説いた。ペロポネソス戦争を経てその後マケドニアが支配するようになると、ギリシャのポリスは衰退し地中海沿岸の植民地へ人口が流出するとともに、音楽理論やその用語がローマ文化圏(西ヨーロッパ)へ伝播していった。

古代ローマの時代 [編集]
古代ローマでは併合したギリシアの音楽の影響を受けていたとされるが、楽譜は伝わっておらず、実態は不明である。

初期キリスト教の音楽 [編集]
古代の末期に見られた初期キリスト教音楽(原始キリスト教)の姿も不明である。新約聖書の「マタイによる福音書」には、キリストは最後の晩餐の後に、弟子達ともに歌を歌ったという記述がみられる。キリスト教がユダヤ教をもとに成立したことから、初期キリスト教音楽もユダヤ教の聖歌がもとにあるとの説が支配的であったが、むしろ独自性を示すために異なった礼拝があったとの考えもある。現存する最古(紀元280年)のキリスト教(東方諸教会)の聖歌とされるのはオクシリンコス・パピルスに含まれていた「三位一体の聖歌」(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されたものである。3?5世紀になると、アルメニア、シリア、エジプト、エチオピア、ビザンツ帝国で、地方の特色と結びついた聖歌ができた。これらは、東方教会聖歌として、それぞれアルメニア聖歌、シリア聖歌、コプト聖歌、アビシニア聖歌、ビザンツ聖歌という形で現在も歌われている。しかし、現在のものが、当時の姿を正しく伝えているとは考えられない。これらの聖歌は、アラブやトルコなどの支配的な民族の影響で1500年以上もの間に大きく変化したと考えられる。恐らくは全員で同じ聖歌を斉唱している間に、歌いやすい音名に移動したのであろう。

3世紀末頃には都市の贅沢を離れ、荒野で過酷な貧困生活を送る修行を通じて信仰を実践しようという修道院運動が盛んになった。その絶え間ない祈祷の際に、全詩篇を順番に朗唱する「詩篇連唱」の習慣が確立した。また、4世紀のエジプトにおいては、修道院の朝夕2回の聖務日課が整備され、宗教的瞑想の前提として詩篇唱が機能した。その後、教会の大聖堂内でも聖務日課の際に詩篇唱が行われるようになり、修道士(女)が演奏のために教会へ赴いた。6世紀までには教会における1日8回の聖務日課が制度化され、その中で修道士(女)が詩篇唱を聖職者は祈祷を受け持つよう、その職能によって分業化された。一方、平信徒ら(一般会衆)にとっては平日にあっては詩篇唱をただ聴くのみであったが、日曜日はともに歌うこともあったようだ。かつて、荒野の中で歌われた素朴で単純な詩篇唱は、聖堂の中で次第に旋律性豊かで甘美なものへと変化していき、熱狂的な詩篇唱ブームにつながった。

ローマ帝国下の初期キリスト教会の集会では、世俗的な晩餐の席でも音楽が親しまれていたこともあり、聖体拝領が夕べの会食時に行われて詩篇唱も同時に歌われた。その際、世俗的な音楽とは区別するために楽器による伴奏を極力排除した。4世紀には聖職者の職務としてのカントル(独唱歌手)の地位が確立した。

初期キリスト教会ではローマ帝国の優れた情報伝達網によって典礼方式や聖歌の統一がある程度、図られていたと思われる。その後帝国の崩壊によって街道や情報伝達のシステムが寸断され、とくに西ローマの地域(西方教会)においては、各地で独立した多様な地方典礼へと発展していった。

西方教会でも、南フランスのガリアでは、ガリア聖歌と呼ばれる聖歌が、スペインではモザラベ聖歌が知られている。北イタリアのミラノには、4世紀にミラノ大司教を務めた聖アンブロジウスの名を冠したアンブロジウス聖歌(アンブロジオ聖歌)、ローマにもローマ聖歌といった地方聖歌が成立した。これらの地方聖歌も現在まで歌われ続けているものがあるが、当時のものではない。地方聖歌は、やがてローマカトリック教会が力を持つと、グレゴリオ聖歌として統一されることになる

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2009年03月21日

8号御料車

8号御料車は、1916年(大正5年)1月31日に貞明皇后の御乗用として鉄道院大井工場で製造されたものである。

車体は鉄道院基本形客車に属するダブルルーフの木製車で、明治44年度基本型の3軸ボギー台車を履いている。全長は20.677m、車体幅は2.591m、高さは3.778m、自重は35.48tである。外板は、チーク材の厚板を横張りにして平滑に仕上げたもので、深紅色の漆が塗られ、金線で装飾が施されている。

車内は、前位から候所、厠、休憩室、御座所、女官室、大膳室に区分されている。また、車体の前後の出入り台には、観音開き式の扉が設けられている。

御座所は、側廊下がない分7号御料車より広く、幅2.399m(7号は1.892m)となっている。上天井は格天井式で雲彩に金箔唐草散らし及び鳳凰の飛ぶ様を表した絹張り、下天井は木組みで菊の文様の絹張りである。櫛形は7号と同じ七宝で、飾り幕板中央部は菊の紋章の絹裂地張りとなっている。引戸は石目漆塗りで化粧羽目は菊水文様の綴錦張り、仕切り正面には大型の鏡が取付けられている。腰部は濃臙脂色のビロード張りで、テーブルや隅棚は桑材製で螺鈿細工が施してある。本車は、皇后御乗用に相応しく、鮮やかな色彩や美しい絹張りが使われており、貞明皇后も気に入っていたという。
せんぼ メカイ ママコー フリーパス ナンキ プルタブ ジャワ フロント ムラサキ ルスカ サファー ルビジウム レジス スギ シャギー フェン ピット お祭り センチ ピアニ ディー まほうの夏 ストラップ キュラ ニッツェル 鳥の巣 しらかし ケイス やはば フィン マップ はなゆ プレーボ さつま ビジー ソマト べーる リュウ ストーブ ニール バギー ブラシノキ キャップ ノータム ソリティ デプロ ハラッパー ナイル クロスプレー クロスワード

1928年(昭和3年)の昭和天皇の即位御大礼の際には、お召し車として使用され、その際に外部に描かれていた菊の御紋章と鳳凰が消され、金線のみの装飾となった。

本車は、1933年(昭和8年)に鋼製の2号御料車(2代)が製造されるまで使用され、1935年12月に廃車された。その後は大井工場に保管されたが、太平洋戦争末期の混乱で大きく破損し、同工場内に荒廃したまま放置されていたが、1956年(昭和31年)に解体された。ただし、女官室の一部は修復された後、交通博物館で展示された。同館が閉館した後は、2007年10月に開館した鉄道博物館に移され、展示されている。

2009年03月06日

イェロギオフ・アヴェロフ (装甲巡洋艦)

イェロギオフ・アヴェロフ(Georgios Averof)はギリシャ海軍がイタリアより購入した装甲巡洋艦である。艦名は、本艦の購入代金のうち1/3を寄付したギリシャの大富豪の名に因む。本艦は1911年の就役から現代まで現存する唯一の装甲巡洋艦である。ギリシャでは、その活躍から敬意を持って、「戦艦」(θωρηκτό)と通称されている。

なお、イェロギオフ・アヴェロフは日本語での慣用で、ギリシャ語名はイェオールイオス・アヴェローフ(Γεώργιος Αβέρωφ)である。特に、名前の部分が「フ」ではなく「ス」である点に注意。

1829年に英・仏・露の介入によりオスマン帝国より独立したギリシャ王国はエーゲ海を挟んで東に対峙するオスマンと厳しい緊張関係が続いていた。列強による強弱取り混ぜた介入政策によりオスマンは弱体化したと言っても、建国まもないギリシャ王国には依然として強大な敵であった。ギリシャ海軍は少ない予算から1885年にノルデンフェルトの潜航艇第一号を購入したり、1892年にフランスより海防戦艦「イドラ級」3隻を購入したりと、着実にオスマン海軍への対抗力をつけていた。だが、オスマン海軍には依然として近代化改装済みの装甲艦6隻と新型装甲艦1隻、蒸気フリゲート8隻が作戦行動可能なレベルに整備されており、完璧とは言いがたかった。

その頃、地中海世界で躍進を続けるイタリア王国が装甲巡洋艦「ジュゼッペ・ガリバルディ(2代)」級の改良型艦を建造すると発表した。ガリバルディ級は8隻が建造されたが、イタリア海軍に渡ったのは3隻だけで、残りは1隻がスペインに、4隻がアルゼンチンに売却されたが、内2隻は大日本帝国海軍に売却され、1905年の日露戦争で活躍した。イタリア海軍に納入された艦は、1912年の伊土戦争でオスマン装甲艦「アヴニ・イラー」を撃破した。

オスマン海軍への対抗打に欠けていたギリシャ海軍はイタリアより最新型の装甲巡洋艦を発注することとした。しかし、建国まもないギリシャにとって一隻数十万英ポンドもの大金を用意するのは並大抵の事ではなかった。そこへ、ギリシャを代表する海商王イェロギオフ・アヴェロフが海軍に数十万ポンドもの大金を寄付した。アヴェロフ氏は愛国心溢れる富豪で1896年にアテネで開催された第1回近代オリンピックにおいて、競技を行う主競技場の建築代金 580,000ドラクマを肩代わりすると言う、歴史に残る偉業を遺した人物である。そのアヴェロフ氏の献金により不足していた購入代金の1/3を補うことができた事を記念して、ギリシャ海軍で初の排水量1万トンを超える大軍艦の名に「イェロギオフ・アヴェロフ」を冠したのである。

艦形について
基本設計はイタリア海軍のピサ級と同一である。同年代の前弩級戦艦「レジナ・エレナ級」の砲装備を小型化し装甲を減じた代わりに速力を2ノット増加した艦として設計士官ジュゼッペ・オルランドの手によりスマートに纏められた。船体は典型的な平甲板型船体で、艦首には未だ衝角(ラム)が付いている。主砲はイタリア製の「25.4 cm(45口径)砲」ではなく、わざわざイギリスより「Mark X 23.4 cm(47口径)砲」を購入した点が「ピサ級」とは異なる。これを、楕円筒形状の連装砲塔に纏め、1番主砲塔、司令塔を組み込んだ操舵艦橋、1番から3番までの煙突を挟み込むように両舷に生えた「19 cm(45口径)砲」を楕円筒形状の連装砲塔に収め、背中合わせに二基ずつ計4基を配置した。煙突の背後には単脚檣と二本のボート・クレーンが付く、その背後に後部主砲塔が一基装備された。

備砲について
この砲はイギリス海軍で多く使われた砲で、準弩級戦艦「キング・エドワード7世」や装甲巡洋艦ドレイク級、クレッシー級、デューク・オブ・エジンバラ級、ウォーリア級と長く使われた砲である。この砲は毎分3?4発を発射でき、仰角15度で最大射程は14,170 mに達した。

副砲は破壊力を重視して「1908年型 19 cm(45口径)砲」を採用し、この砲塔は毎分3.2発を発射でき、俯仰角は仰角25度から俯角7度で最大仰角25度で22,000 mというイギリス製主砲を超える大射程を持っていた。その他に対水雷艇用に「76 mm(40口径)砲」を単装砲16門、47 mm(40口径)単装砲2基、45 cm水中魚雷発射管3基を装備した。

機関について
ボイラーはフランスで開発され各国に採用されたベルヴィール式石炭・重油混焼缶22基に直立型四気筒三段膨張式レシプロ機関2基2軸推進で最大出力20,000 hp、速力23ノットを発揮した。速力12ノットで航続距離は2,672海里と計算された。航続距離が他国装甲巡洋艦に比べ、極端に短いのが特徴であるが地中海での行動を念頭において設計されたイタリア装甲巡洋艦の特徴である。同じく地中海で行動するギリシャ海軍では特に問題ではなかった。

防御について
本級の防御装甲は同世代の装甲巡洋艦に比べ、1万トン台という排水量を考えれば極めて強固であり。舷側装甲厚200 mmという値は防御に優れるイギリス艦の152 mm、ドイツ・フランス艦の170?180 mmで欧州最高峰であった。唯一として比肩するのが大日本帝国海軍の装甲巡洋艦「筑波型」(竣工時は装甲巡洋艦に属していた)の203 mmくらいであった。

竣工から第二次世界大戦まで
本艦は1909年にイタリアの大手造船会社オルランド社がリヴォリノ造船所にて輸出用に建造中していたピサ級装甲巡洋艦「仮称名 "X"」を、同年にギリシャが30万英ポンドで購入し、1910年3月12日に進水式を行い、翌1911年5月16日に竣工してギリシャへと引き渡された。就役後はギリシャ海軍の旗艦として艦隊の中核を成し、1912年10月17日に生起したバルカン戦争において、海防戦艦イドラ級3隻と駆逐艦14隻を率いてオスマン海軍と激しく戦った。同月18日から20日にかけてダーダネルス海峡封鎖を狙ってレムノス島占領作戦を成功に導いた。1912年12月16日にオスマン帝国海軍によるギリシャ反抗作戦が開始され、前弩級戦艦「トゥルグート・レイス」級「トゥルグート・レイス」「バルバドス・ハイレディン」2隻と装甲艦「アシャーリ・テウフイク」と防護巡洋艦「メジディイェ」と駆逐艦4隻を率いて突撃してきた。これに対し、ギリシャ艦隊は旗艦「アヴェロフ」とイドラ級海防戦艦3隻と駆逐艦4隻を率いて迎えうった。

オスマン帝国艦隊は岸から充分に離れてから90度回頭した。これに対し、「アヴェロフ」に座乗するコンドリオティス少将は優速な艦を率いて20ノットを下命、付いてこられない艦は自由行動とした。アヴェロフを旗艦とした高速艦隊は縦列陣を、装甲艦3隻は横列陣を採り前進する。オスマン帝国艦隊は9,000 mから射撃を開始したものの、重装甲なフランス製海防戦艦に戸惑っている内にアヴェロフに回り込まれて両方から砲弾を撃ち込まれる体たらくであった。慌てたオスマン艦隊の指揮官はダーダネルスへの撤退を命じた。しかし、艦隊運動はお粗末で混乱に満ち満ちており、互いに進行方向を妨害する始末であった。更に、射線上に友軍艦隊がいるのでオスマン艦隊は射撃を中断。その隙を突かれ「バルバロス・ハイレディン」の艦後部に立て続けに命中弾、機関室や石炭庫で火災が発生し中破した。「トゥルグート・レイス」と「メジディイェ」にも命中弾が出たが、大した損傷は出なかった。混乱する「メジディイェ」はギリシャ駆逐艦「イェラクス」に60発以上の102 mm砲弾を発射し追い払ったのが戦果らしい戦果だった。オスマン艦隊は我先へとダーダネルス海峡に逃げ込み、10時30分に戦闘終了。

オスマン帝国艦隊はこの時に大小合わせて800発もの砲弾を発射したが、大口径砲弾の命中は唯一3,000 mまで近づいた「アヴェロフ」に命中弾1発を出しただけで、それさえも強固な舷側装甲に弾かれた。むしろ小口径弾の方が命中弾が多く、「アヴェロフ」に十数発の命中が確認され、1人戦死、7名負傷させた。他に「イドラ」と「スペツェス」に命中弾が出たが、両方合わせて1名が重傷を負ったに過ぎない。なお、「プサラ」は無傷であった。ギリシャ艦隊の圧勝で終わったこの海戦は「エリの海戦」として戦史に残り、その名は1914年に中国経由でアメリカ合衆国より購入した軽巡洋艦「エリ」として残った。

1913年には、先の海戦の影響で左遷させられた前任者に代わりラムシ・ベイ大佐率いるオスマン艦隊は主力艦4隻と駆逐艦13隻を率いて再びダーダネルス海峡を渡った。しかし、オスマン帝国艦隊がレムノス島まで13マイルまでに近づいたとき、ギリシャ艦隊が出撃してきた。「アヴェロフ」の存在を確認したオスマン艦隊司令は退却を下命。しかし、コンドリオティス司令はこれを追撃、長距離砲撃戦が始まり、徐々に距離を詰めながら砲戦は継続され、約2時間は「アヴェロフ」は5,000 mにまで接近し、トルコ艦隊に何度も命中弾を出した。砲撃を受けた「バルバロス・ハイレディン」と「トゥルグート・レイス」は激しく炎上したが、さすがに前弩級戦艦であり、ダーダネルス要塞の射程まで逃げ込んだ。しかし、「バルバロス・ハイレディン」は2番主砲塔が使用不能となり、同じく「トゥルグート・レイス」も砲塔1基が破壊された。装甲艦「アシャーリ・テウフイク」は大破した。

今回もオスマン帝国艦隊は大小砲弾合わせて800発を放ったが、人的被害はギリシャ艦隊全体で1名が運悪く重傷を負っただけ。旗艦「アヴェロフ」に命中した砲弾は戦闘能力を奪う損傷は与えていなかった。一方でオスマン帝国艦隊は戦艦2隻が中破、装甲艦1隻大破で、人的被害は31名戦死、負傷者は82名を数えた。今回もギリシャ艦隊の大勝利に終わり、この海戦は「レムノスの海戦」として戦史に残り、その名はギリシャがエリに引き続きアメリカより準弩級戦艦ミシシッピ級2隻を購入し、海防戦艦「キルキス」級2番艦「レムノス」として名が残った。

バルカン戦争においてギリシャ艦隊の中核として戦闘のみならず、輸送作戦に従事した本艦はほぼ無傷のまま戦後を迎えた。

第一次世界大戦時には連合側として参戦したギリシャは、ギリシャ艦隊をフランスに差し出した。フランス海軍指揮下に置かれた「アヴェロフ」以下ギリシャ艦隊は輸送作戦で海上護衛に従事した。その縁もあり、第一次大戦後、前檣のなかった本艦は強固な三脚型の前檣を与えられ、頂上部にフランス式射撃方位盤と「X」字状の信号ヤードが設けられた。また、老朽化した機関を換装して現代の姿に近くなっている。近代化改装を終えた本艦は再びギリシャ艦隊の中核としてエーゲ海で活発な活動を行った。オスマン艦隊にはドイツより購入した巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」があったが同艦は1918年10月から1923年まで連合軍に抑留されていたし、返還後も連合軍の眼が光っており、ダーダネルス海峡から出ようとしなかったので問題は無かった。
トラン パラグ ピロティ 桂うり プラン マーガリン シング サラウンド シャン リネージ バージニ コルホーズ ハンドア ロサク 天体議会 てきか フェンディ ドメーヌ ロココ サファ みつば 最遊記 リーター ささぶね ノリウッド パパイン ライン 江戸手拭 フォビア ズクロー ツイザー 時計台の鐘 オーラン ラグビー ハッチ びわ乃 ティモール ワイン プーリー タッチ トゥク がらいろ ナリア こだわり ばんか チョオ 星の衣 レイヤ ハナキ かくの

データ
竣工時
水線長: 130 m
全長: 140.5 m
全幅: 22.2 m
吃水: 21.1 m
基準排水量: - t
常備排水量: 9,832 t
満載排水量: 10,100 t
兵装
23.4 cm(47口径)連装砲2基
19 cm(45口径)連装砲4基
76 mm(40口径)単装砲16基
47 mm単装砲2基
45 cm水中魚雷発射管3基
機関: ベルヴィール式石炭・重油混焼缶22基+直立型四気筒三段膨張式レシプロ機関2基2軸推進
最大出力: 20,000 hp
航続性能: 12 kt/2,672 nm
燃料搭載量: 1,560 t(石炭)、70 t(重油)
最大速力: 23 kt
装甲
舷側装甲: 200 mm(水線面上部主装甲)、80 mm(艦首尾部)
甲板装甲: 51 mm
主砲塔装甲: 160 mm(前盾)、140 mm(側盾)、140 mm(後盾)、- mm(天蓋)
副砲塔装甲: 170 mm(前盾)、- mm(側盾)、- mm(後盾)、- mm(天蓋)
パーペット部: 190 mm
司令塔: 180 mm
航空兵装: -機
乗員: 684名
同型艦: なし

2009年02月14日

まじかるブリンガーころな

魔女っ子アニメを基調としたアドベンチャーゲームであり、作品の随所にそれを彷彿とする演出が見られる。また随所にパロディやマニアックな小ネタが盛り込まれているのも特徴。テキストを読み進めながら選択肢を選び物語を進めていくアドベンチャーパートと、「T2システム」と名づけられた独自の戦闘システムで行う戦闘パートに分かれている。続編である『劇場版まじかるブリンガーころな』にはクリア後の特典として、ダンジョンRPG『だんだんダンジョン大冒険』を追加するパッチが存在する。これはオマケ要素でありながらかなり本格的な完成度であり、本編よりもクリアするのに時間がかかる。

主人公・佐倉頃奈は何をやってもダメな落ちこぼれ。時の流れるままにダラダラと過ごしていた。そんなある日、趣味でやっていた召喚実験にうっかり成功、一振りの剣を呼び出してしまう。魔法が使えるようになると聞き、大喜びで契約した頃奈。魔剣少女「まじかるブリンガーころな」の誕生であった。しかし、その剣は世界を斬り裂く程の破壊兵器。早速その翌日から魔王ベルゼビュートが剣を狙って襲来し、激しい争奪戦が勃発。正義の魔法少女からは悪人と勘違いされ、親友まで巻き込んでしまう大騒動に発展。はたして頃奈は剣を、友を守り、強大な魔王に勝つことができるのか…?

魔剣争奪戦から1ヶ月後。町にはすっかり平和が戻り、頃奈は夏休みをいいことにダラダラと過ごしていた。魔剣の使い方も少し上達し、一緒に戦ってくれた親友とは相変わらず仲が良く、正義の魔法少女とも徐々に打ち解け、襲ってきた魔王ベルゼビュートですら今となっては同じ時を過ごす仲間。そんな平和のうちに夏休みが終わる予定だった。しかし、魔王の思いがけない一言がその予定を覆すことに。

「私の城へ来ないか?」

突然降って湧いた旅行の話に、頃奈は大喜びで承諾。前代未聞のベルゼビュート城ツアーが決行されることに。同行する友人たちにも、城で出会う悪魔たちにも、まさかこの旅行が人類の運命を左右する大事件に発展するとは、予想もできないまま…。

※旧作と劇場版の相違点
劇場版のストーリーは旧作の1ヵ月後という設定だが、旧作がマルチエンディング方式であり、劇場版のストーリーと必ずしも結びつかなかったり、魔剣の名前が「オシリス」に固定されるなど、多少の相違点がある。


様々なキャラクターとの戦闘をクリアし、会話を読み進めながら選択肢を選んでストーリーを進めていく。旧作ではマルチエンディング方式をとっている。劇場版ではベルゼビュート城内を歩く移動画面があり、一周クリアすると新たに隠しシナリオが出現。一周目での行動が隠しシナリオに反映される。

旧作では「T2システム」、続編では「T2-NEO」と呼ばれる独自の戦闘システムを採用している。基本的には流れてくる矢印型のカーソルにあわせてタイミングよくキーボードの矢印キーを押していくという、いわゆる音ゲーのようなシステムだが、音楽にあわせて押すわけではないので若干異なる。またカーソルは、キャラクターの特性や必殺技などによって、高速で流れてきたり、重なっていたりとパターンも多種多様である。

イニシアチブラウンド
カーソルをタイミングよく押すとゲージが溜まっていき、これが満タンになると攻撃に移行できる。敵も同じようにゲージが溜まっていき、満タンになると敵の攻撃となる。キャラクターによって素早さが異なるため、ミスをしなければ確実に先手を取れるという保証はない。劇場版ではさらに当たり判定があり、よりタイミングよく押すことでゲージの上昇が速くなる。

アタックラウンド(ガードラウンド)
攻撃して相手にダメージを与える。敵の攻撃の場合はガードラウンドとなる。劇場版では当たり判定があり、タイミングが与えるダメージやスキル「強撃」(後述)に対する防御力に影響する。

スペシャルラウンド
アタックラウンドの特殊な形であり、威力の高い必殺技で攻撃することができる。旧作ではこのラウンドへの移行はほとんど運任せであったが、劇場版ではエネルギーゲージを採用し、これによってある程度プレイヤーの意思で必殺技を繰り出すことが可能になった。なお敵のスペシャルラウンドへ移行するタイミングはランダムである。


ヒットゲージ
相手に攻撃を当てることで溜まっていき、これが溜まっている時に、矢印に混じって流れてくるエンターキーのカーソルを押すと、ゲージが溜まっている分大ダメージを与えることができる。ただし、一回攻撃をはずすとゼロに戻ってしまうため初心者がうまく使うことは難しい。このゲージがかなり多く溜まっていると、稀にスペシャルラウンドでエンターキー一発のみの攻撃が発動する。敵もエンターキーの攻撃を仕掛けてくるが、ヒットゲージは持たない。劇場版ではヒットゲージの代わりにエネルギーゲージが採用された。

必殺技
キャラクター各々に設定されており、威力に応じてレベル3まで存在する。敵キャラクターの使用する必殺技は、ストーリー前半では容易に避けられることもあるが、後半になると初心者では全て避けきることは愚か、一発も避けられないような攻撃を仕掛けてくることも少なくない。以下にあげたものは必殺技の一例。
ころなデスペラード
ころなレベル1の必殺技。威力の高い打撃十二連続攻撃。ヒット数とエネルギーゲージが上昇するオーソドックスな技。敵として出てきた場合は超高速スクロールになる。
ヴォルティックブレード
昴レベル2の必殺技。約半分の確率で判定ポイント手前でカーソルが右側から来るようになる。(劇場版でプレイヤーが使う場合はレベル1で「ころなデスペラード」と同等)
BLOODY SLASH(ブラッディスラッシュ)
クロウが使用するレベル1の必殺技。スキル「吸収」により、防御に失敗すると回復されてしまう。
さらに、プレイヤーの魔女っ子レベル(後述)が高いと、カーソルが判定ポイント直前に透明になる。
ミッドナイトレイヴ
クロウの「DARKNESS MIST」(視界が悪化&カーソルが黒くなる)とニャルの「ダブルファングスライサー」(2つのカーソルが連なって流れてくる)を同時に仕掛ける必殺技。魔女っ子レベル(後述)が高いと「ダブルファングスライサー」の代わりに「インビジブルトルネード」(カーソルが判定ポイント手前から現れるスキル「死角」を付加する)と組み合わせた「MIDNIGHT EXECUTION」を使ってくる。
大罪シン・オブ・エンヴィ
レヴィアレベル2(?)の必殺技。通常のカーソルが1個だけ向かってくるように見えるが、実際には数個の同じ方向のカーソルが重なり合った状態であり、それらを全て捌ききらないと大ダメージを受けてしまう。初見で見切れる人はまずいないと思われる。

スキル
戦闘中のキャラ及びその必殺技には特殊なスキルがついていることがある。以下、主なスキルを挙げる。
攻×2、防×2
それぞれ攻撃力と防御力が2倍になる。
速×2
イニシアチブゲージの溜まり方が2倍(旧作では1.5倍という説有り)になる。主にプレアが所持。
強撃
防御側が防御に成功してもダメージの一部が貫通する。劇場版での「CRITICAL」判定でのみダメージをゼロにできる。ノエルの「TEMΠEΣT」等。
吸収
攻撃に成功すると自分の体力が回復する。クロウの「BLOODY SLASH」等。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

ころなサヴァイヴァー
戦闘に破れた場合、敵の能力を下げてコンテニューできるシステム。これを使うと敵の攻撃力やスピードが下がり攻略が容易になる代わりに、使えば使うだけ魔女っ子レベル(後述)が下がってしまう。なお、使わないまま再挑戦できるのは2回までで、それを超えると強制的に使用される。

魔女っ子レベル
ゲームをクリアした時点で知ることができる。「ころなサヴァイヴァー」を多用したり、ダメージを多く受けると下がっていき、最高レベル(ほぼノーダメージクリア)は100。高レベルでクリアするとフリーバトルモードで使用できるキャラクターが増える。

フリーバトルモード
一回クリアすると新たにプレイできるモードで、戦闘のみをプレイすることができる。ストーリー上有り得ない組み合わせでの戦闘が可能。高い魔女っ子レベルでゲームをクリアすることで使用可能なキャラクターが増えていく。

劇場版からの新要素
当たり判定
カーソルを押したタイミングを4段階で判定している。よりタイミングよく押すことでイニシアチブゲージの溜まり方を速くしたり、攻撃ダメージを上乗せしたりできる。

エネルギーゲージ
旧作のヒットゲージに相当するが、ミスしてもゼロに戻ることはない(但し、ゲージの溜まり方は遅くなる)。攻撃をヒットさせることで溜まっていき、一定以上溜まった状態でアタックラウンドを迎えると必殺技が発動する。また1レベル以上溜めると、任意のタイミングでクイックバーストを発動させることができる。なお、敵には存在しない。

クイックバースト
エネルギーゲージが1レベル以上ある状態ならば、エンターキーを押すことで一気にイニシアチブゲージを満タンにすることができる。ゲージを1レベル分消費するかわりにカウンター攻撃が可能。発動させた時に1レベル以上ゲージが残っている場合は、レベルに応じた必殺技を使って攻撃できる。

佐倉頃奈(さくらころな)
黒き魔剣と契約し魔法少女まじかるブリンガーころなとなった主人公。あまり物事を深く考えず、純粋無垢な性格。甘いものが好き。しかし、食べたものは(胸を含め)何処にも使われていない。必殺技のネーミングには独特のセンスが垣間見える。考古学者の父が海外出張中のため、現在は母と二人暮し。

まじかるブリンガーころな
頃奈が「マジカルインディペンデンス」の掛け声とともに変身した姿。とはいえ、衣装を変えても能力に変化はないし、それをするための掛け声も必要ない。魔法少女を夢見てきた頃奈の自己満足である。オシリスと契約したことにより、剣術を身に着けている。
黒き魔剣
頃奈によって現世に召喚された伝説の魔剣。一万年前に作られたオーパーツであり、「バルムンク」「ストームブリンガー」等の名称で様々な猛者と戦いを共にしてきた。作中では若本規夫のような声であると表現されているが、キャラクターボイスは無い。旧作では名前をつけることができたが、劇場版ではオシリスという名前に固定された。頃奈とは対照的に甘いものが苦手。名前の由来はエジプト神話のオシリス……ではなく、頃奈が昔飼っていた犬の名前。

良海昴(よしうみすばる)
頃奈が通う学校の後輩。高速で空を飛び、雷を操る魔法少女ライトニングエンジェル・プレアとして、町の平和を守っている。頭脳明晰、スポーツ万能、家事も一通りこなし、何でも1人で解決する完璧主義者。その性格と過去に負った心の傷から、真に心を許せる友達がいなかった。真っ直ぐな瞳の中には正義の闘志が燃えている。旧作の感動的なエンディングやツンデレな性格で人気を博している。そして、劇場版では…。

ライトニングエンジェル・プレア
昴の魔法少女としての姿。大気中の電気を自由自在に操り、イオンパルスを加速することで空を飛べる。名前の由来は、昴の英名プレアデスから。
天乃川由香(あまのがわゆか)
頃奈の幼馴染でクラスメイト。町の高台にある神社の一人娘であり、巫女として御神体の「神器」を受け継いでいる。世話好きだが、頃奈ほどおせっかいでもなく、少しだけ手助けして見守るタイプ。昴が信用する数少ない人物でもあり、何かと相談に乗ることも。

ノエル・ディ・ベルゼビュート
黒き魔剣を我が物にするために魔界から人間界にやってきた魔王ベルゼビュートの当代。魔族としては幼く子供のような外見をしているが、頃奈たちの5倍近く生きている。生まれながらに持った魔力は圧倒的に高く、冷酷な破壊者として魔界でも恐れられている。頃奈と契約した黒き魔剣を狙って、部下と共に人間界にやってきた。

ニャルラトテップ
ノエルに仕える格闘ファイター。通称「ニャル」。リカントという猫型の獣人。ノエルですらどうにもならない程の気分屋で、予想がつかない行動を取ることから「這い寄る混沌」の通り名を得ている。回復能力に特化していて、どんなダメージを受けてもすぐに復活する。豪快で、明るく笑い、情けに厚い。語尾に「にゃ」を付けるのが特徴。名前の由来はクトゥルフ神話のニャルラトテップ。

クロウ・クルーワッハ
ベルゼビュート城に仕える騎士長。ノエルに対する忠誠心は絶対である。ヘルハウンドという犬型の獣人で、この種族としては珍しく魔法に長けている。得意なのは暗黒魔法。戦闘能力が非常に高く、武器として召喚する大鎌で相手の生命力を吸い取ることから「血塗られた三日月」の通り名を持っている。無口で冷酷な武人だが、腐れ縁のニャルにからかわれると感情を出すことも。名前の由来はケルト神話のクロウ・クルワッハ。

コバヤシ
頃奈行きつけのクレープ屋の店主。超常現象やオカルトなどに精通しており、頃奈の数少ない理解者である。某マンガの主人公に酷似しており、「な、なんだってーっ!」などと叫ぶ。

佐倉美月(さくらみづき)
頃奈の母で専業主婦。父親は海外を飛び回っているため、女手ひとつで頃奈を育ててきた。趣味はB級ホラー映画鑑賞。娘と違って体型は…。

良海暁(よしうみあきら)
昴の叔父で大学の助教授。昴より10歳年上という若さで、イケメン。昴にとって最大の理解者。

劇場版にのみ登場するキャラクター
ライム
ベルゼビュート城のメイド長。清掃、洗濯、料理、庭の手入れなど、城内の生活面を任されている。種族はヴァンパイア。天井からぶら下がって行動している(重力を操る能力を持っているのでスカートが捲れたりはしない)。性格は明るく丁寧。それとなく悪魔的に上品。メイドとしては完璧すぎるほど完璧で、主人が指示を出す前に仕事をこなしてしまう。名前の由来はソロモン72柱のラウム。

ベリス
悪戯好きの小悪魔。あまりにも悪戯が酷いので、ベルゼビュート城から出してもらえない。どうやらノエルよりも年少らしく、見た目どおり我侭で自由奔放な子供。小悪魔と呼ばれることを嫌って自らを堕天使だと言い張り、空を飛ぶときは背中から黒い翼を展開する。機械が大好きで、コンピューターゲームに関しては「悪魔の如き」強さを発揮する。名前の由来はソロモン72柱のベリト。

セルファリーナ・ディ・レヴィアタン
大海原の魔王。レヴィアタン家の当主。魔王というよりも神獣に近い存在。自分の長い名前が気に入らないのか、周囲に「レヴィア」の略称で呼ばせている。無口な性格であり、たまに口を開いたと思ったらわけのわからない言動で周囲を困惑させる。「ん…」という独特の口調で話す。

2009年01月28日

箱館戦争

箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いである。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。

慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた徳川家海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓ににあたらせようと画策する。
サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ

蝦夷へ向かう旧幕府軍
品川沖を脱走する旧幕府艦隊
左から美嘉保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽丸、回天丸榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の幕臣勝海舟の説得で、富士山丸など数隻を引渡すが、開陽丸など主力艦の温存に成功した。7月、榎本対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、8月20日、開陽丸を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美嘉保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、仙台を目指した。

この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。

榎本艦隊は出航翌日から悪天候に見舞われて離散し、咸臨丸・美嘉保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。直ちに艦の修繕と補給が行われるとともに、庄内藩支援のために千代田形と陸兵約100名を乗せた運送船2隻(長崎丸・大江丸)を派遣した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した。

榎本は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・大江丸、鳳凰丸と、桑名藩主・松平定敬、歩兵奉行・大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らと旧幕臣からなる伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊などの兵、約2,500名を吸収して、10月12日に仙台を出航。途中、幕府が仙台藩に貸与して海賊に奪われていた千秋丸を拿捕し、さらに宮古湾に寄港して旧幕臣の保護を旨とする嘆願書を新政府に提出して、いよいよ蝦夷地を目指した。

箱館港には諸外国の船が入港しており、開陽丸などが入港すると混乱を招く恐れがあったため、10月21日(グレゴリオ暦1868年12月4日)に箱館の北、鷲ノ木に約3,000名が上陸した。
旧幕府軍の蝦夷地平定
蝦夷地の大部分はもともと幕府の直轄地であったが、新政府は箱館の五稜郭に箱館府を設置してこれを統治しようとしていた。旧幕府軍は大鳥圭介と土方歳三の二手に分かれて箱館へ向けて進軍するが、無用な戦闘は意図しておらず、まずは箱館府知事・清水谷公考に使者を派遣した。新政府への嘆願書をたずさえた人見勝太郎ら30名が先行するが、明治元年(1868年)10月22日、峠下で津軽藩兵などからなる箱館府軍の待ち伏せに遭い、戦端が開かれる。

五稜郭本陣 (明治元年冬撮影)
新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。
五稜郭設計図10月24日、人見たちと合流した大鳥軍が大野村と七飯村で箱館府軍を撃破し、土方軍は川汲峠で箱館府軍を敗走させた。各地の敗戦を聞いた清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、25日に秋田藩の陽春丸に乗船し青森へ退却した。旧幕府軍は10月26日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させた。旧幕府軍は上陸後5日で箱館を占領することに成功した。

唯一蝦夷地を本拠とする松前藩は奥羽越列藩同盟に属していたが、東北諸藩が降伏すると寝返り、新政府軍の先鋒として旧幕府軍と対峙することになる。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、戦うことを決意する。

10月27日、土方歳三を総督として額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に向けて出陣し、11月1日に敵の奇襲を受けるがこれを撃破、11月5日には知内・福島を突破して、松前城に到達した。松前藩は徹底抗戦の構えだったが軍式は旧式であり、旧幕府軍の新式の武器と蟠竜丸・回天丸などからの砲撃により、松前城は数時間で落城。松前兵は江差方面へ敗走した。


箱館政権の閣僚
後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚11月12日、旧幕府軍は星恂太郎率いる額兵隊を先鋒とする500名が松前から江差に向けて進撃。途中大滝陣屋を陥落させ、15日、江差に迫ると、すでに松前兵は敗走、江差攻略の支援に来ていた開陽丸を中心とする海軍によって無血占領されていた。しかし、この夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽丸は座礁してしまう。箱館から回天丸と神速丸が開陽丸救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁。為す術なく総員退艦した開陽丸は、数日後に沈没する。これにより旧幕府軍は制海権の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。

他方、11月10日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊など500名が五稜郭を発ち、二股を経て、松前藩主・松前徳広が拠っていた館城攻略に向かった。11月15日に館城は落城するも、藩主は前日のうちに奥方と老少男女を引き連れて熊石へ退いていた。22日、熊石に到着すると、藩主は君臣男女60余名とともに船で津軽へ逃亡した後だった。残された松前藩士約300名が一聯隊に投降。これにより蝦夷地平定は完了した。

12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、改めてイギリス軍艦に嘆願書を仲介してもらうが、新政府はこれを黙殺した。また、旧幕府軍は、軍事組織を再編成し、来たる新政府軍の攻勢に備えて、江差、松前、鷲ノ木など支配地域の沿岸部に守備隊を配置した。なお、沈没した開陽丸の乗組員は開拓方となり、開拓奉行となった艦長・澤太郎左衛門とともに室蘭の守備と開拓に充てられている。

◇ 旧幕府軍参加諸隊 ◇ 隊名 隊長 人員 出身 配置 隊名 隊長 人員 出身 配置
彰義隊 菅沼三五郎 185 幕臣 有川〜福島 新選組 森常吉 150 幕臣・諸藩 箱館
小彰義隊 渋沢成一郎 54 幕臣(一橋派) 湯の川 会津遊撃隊 諏訪常吉 70 会津藩 有川〜福島
遊撃隊 伊庭八郎 120 幕臣 松前 額兵隊 星恂太郎 252 仙台藩 有川〜福島
陸軍隊 春日左衛門 160 幕臣 松前 見国隊 二関源治 400 仙台藩 室蘭・箱館
伝習士官隊 瀧川充太郎 160 幕臣 箱館 神木隊 酒井良助 70 高田藩 (宮古湾)
伝習歩兵隊 本多幸七郎 225 幕府歩兵 五稜郭 杜陵隊 伊藤善次 75 盛岡藩 五稜郭
衝鋒隊 古屋佐久左衛門 400 幕府歩兵 東北 砲兵隊 関広右衞門 170 幕府砲兵 各地
一聯隊 松岡四郎次郎 200 幕府歩兵 江差 工兵隊 吉沢勇四郎 70 幕府工兵 五稜郭
その他諸隊(士官付属・事務方など) 100 / 海軍 800

新政府軍集結
甲鉄艦新政府は、11月27日、青森に避難していた箱館府知事・清水谷公考を青森口総督に任命し、諸藩兵を結集して旧幕府軍の征討に入ることを命じた。しかし、松前藩があっけなく旧幕府軍に敗北したことや、脆弱な海軍力を危惧して、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始することに決していた。

陸軍は、奥羽征討軍参謀であった山田顕義を海陸軍参謀に任じ、明治2年(1869年)2月には松前藩、津軽藩兵を中心に7,000名が青森に集結した。一方、海軍は旧幕府軍との海軍力均衡を図るためにアメリカから最新鋭の装甲軍艦、甲鉄を購入するとともに、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成した。3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・陽春・丁卯の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻)は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆、4月の蝦夷地上陸を目指した。

◇ 新政府軍各藩出兵数(陸軍)◇ 津軽 2,207 松前 1,684 長州 781 備後福山 632 備前岡山 541
熊本 396 徳山 300 薩摩 293 筑後 243 黒石 243
水戸 219 津 199 越前大野 170 箱館府 200 合計 8,108

宮古湾海戦
蝦夷地を平定した旧幕府軍だが、かつての強みであった海軍は開陽丸を失い、さらに甲鉄が新政府の手に渡ったため、海戦での苦戦は必至であった。明治2年3月、新政府軍の艦隊が宮古湾に入るとの情報を受け、甲鉄を奪取する作戦を立案する。3月20日、海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天丸と蟠竜丸、箱館で拿捕した高雄丸の3艦は宮古湾に向けて出航した。

回天丸の戦闘3月23日、暴風雨に遭遇した3艦は統率が困難となり、集結地点である南部大槌湾には回天丸と高雄丸が到着したが、蟠竜丸は現れなかった。その上、高雄丸は蒸気機関のトラブルで速力が半分に落ちており、このままだと勝機を逸してしまうという土方などの意見で、結局回天丸のみで決行されることになった。

回天丸は、宮古湾へ突入するとアメリカ国旗を降ろし日本国旗を揚げて、全速力で甲鉄へと向かった。奇襲は成功したが、外輪船の回天丸は横付けできず、甲鉄との船高の違いもあり、思うように戦えなかった。戦闘準備を整えた宮古湾内の他の艦船や甲鉄に装備されていたガトリング砲による反撃が始まり、作戦は失敗、宮古湾を離脱した。回天艦長・甲賀源吾、旧新選組の野村利三郎など19名が戦死。機関故障のため速力が出ない高雄丸も新政府軍の春日丸に追撃され、田野畑村羅賀浜へ座礁させて火を放ち、乗組員は盛岡藩に投降した。

新政府軍上陸
明治2年4月9日早朝、海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が江差の北、乙部に上陸した。旧幕府軍は上陸を阻止すべく江差から一聯隊150名を派遣したが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前兵によって撃退された。陸兵が小競り合いを続けている間に、春日丸を中心とする新政府軍軍艦5隻は江差砲撃を開始。江差の砲台は反撃を試みるも、敵艦に砲弾は届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に後退した。新政府軍が江差を奪還すると、4月15日にはさらに陸軍参謀・黒田清隆率いる2,800名が江差へ上陸し、松前道、木古内道、二股道の三つのルートから箱館へ向けて進軍を開始する。また、旧幕府軍では、4月14日、仙台藩を脱藩した二関源治率いる見国隊400名がイギリス船で鷲ノ木近くの砂原に到着し、室蘭及び箱館防備に投入されている。

松前の戦い
4月11日、松前を守備していた伊庭八郎率いる遊撃隊と春日左衛門率いる陸軍隊を中心とする部隊500名が江差奪還のために出撃する。根武田付近で新政府軍の斥候を蹴散らし、翌日には一気に茂草まで進出、新政府軍は江差まで退却する。このまま江差奪還を目論んだが、新政府軍が後方の木古内に進出しているとの報に接し、松前への退却を余儀なくされる。

4月17日、松前の旧幕府軍500名は、改めて江差へ向けて出陣するが、新たに上陸した新政府軍1,500名と折戸浜付近で遭遇。海からは新政府軍軍艦の砲撃が轟き、双方入り乱れての激戦となった。戦力差は歴然としており、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は松前城に逃げ込むが、艦砲射撃にさらされ、福島まで後退を強いられた。

木古内の戦い
木古内では4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介指揮下、伝習隊、額兵隊などが駆けつけ、同地を守っていた彰義隊などと合流し、500名が布陣。新政府軍の斥候と小競り合いを繰り返していたが、松前から敗走してきた部隊を取り込み、木古内周辺の要所に部隊を配置していた。

4月20日未明、新政府軍が総攻撃を開始すると、昼ごろまで激戦が続いた。旧幕府軍は額兵隊と遊撃隊などが最後まで踏み止まっていたが、70名以上の死傷者を出して泉沢まで後退した。その後、本多幸七郎率いる伝習隊などの援軍を加え、知内に孤立した彰義隊など300名を救うために再び木古内へ向かう。孤立していた部隊も木古内突入を決め、新政府軍を挟撃する形となり、木古内奪還に成功する。しかし、旧幕府軍は、木古内を放棄し、地形的に有利な矢不来まで後退し、砲台と胸壁を構築して布陣した。

4月28日に青森からイギリス艦で運ばれて来た新政府軍2,000名が福島へ上陸し、充分な補給を受けた新政府軍は、翌29日、陸軍参謀・太田黒惟信が2,500名を率いて本道、海岸、山上の三方から矢不来に迫った。旧幕府軍は、甲鉄・春日による艦砲射撃で衝鋒隊の大隊長・天野新太郎や永井蠖伸斎など多数の死傷者を出し、総崩れとなった。大鳥圭介は富川で部隊の立て直しを図ったが果たせず、有川まで撤退。有川では榎本武揚自ら指揮を執るが、旧幕府軍は完全に崩壊、箱館方面へ敗走を始める。旧幕府軍はこの戦闘で160名の戦死者を出している。

二股口の戦い
土方歳三の指揮下、衝鋒隊・伝習隊からなる300名は、4月10日に台場山に到着し、二日がかりで16箇所に胸壁を構築、新政府軍を待ち構えた。13日正午過ぎ、700名の新政府軍が攻撃を開始し、対する土方軍は胸壁を楯に小銃で防戦。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返すが、土方軍は雨の中、2小隊ずつが交代で小銃を撃ち続けた。翌14日早朝、新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退した。旧幕府軍が撃った弾丸は、3万5千発に及び、16時間にわたる激闘であった。

22日、新政府軍は再度攻撃を試みるが、土方軍はこれも撃退。23日午後、新政府軍は正攻法をあきらめ、急峻な山をよじ登り、側面から小銃を打ち下ろしてきた。そのまま夜を徹しての大激戦となる。24日未明には瀧川充太郎率いる伝習士官隊が抜刀して敵中に突進、混乱する新政府軍を敗走させる。それでも新政府軍は次々と新しい兵を投入し、旧幕府軍は熱くなった銃身を水桶で冷やしながら、小銃で応戦し続けた。25日未明、ついに新政府軍は撤退。これ以降、新政府軍は二股口を迂回する道を山中に切り開き始める。4月29日、矢不来が新政府軍に突破されると、退路を断たれる危険があった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる。

箱館総攻撃
弁天台場4月28日に青森口総督・清水谷公考が江差から上陸し、5月1日以降、松前・木古内から進軍した東下軍と二股から進軍した南下軍が有川付近に集結、箱館制圧の体制を整えた。旧幕府軍は、大鳥圭介らが七重浜の新政府軍本営を数度に渡って夜襲し、攻勢に出る場面もあったが、5月6日、新政府軍は旧幕府軍が箱館湾に敷設していた索鋼を住民の協力で撤去し、軍艦を箱館湾に進出させた。5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始、海陸両方から箱館に迫った。

四稜郭の土塁跡旧幕府軍では大鳥圭介が五稜郭北方の進入路にあたる亀田新道や桔梗野などに伝習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置して指揮を執っていた。5月11日、午前8時ごろ、新政府軍4,000名が大挙して押し寄せてきた。大鳥は東西を奔走し、自ら大砲を撃って力戦したが、夜には五稜郭に撤退した。また、旧幕府軍が五稜郭の北に急造した四稜郭では、松岡四郎次郎率いる一聯隊が防戦していたが、五稜郭との中間に位置する権現台場を新政府軍に占領されると、退路を断たれることを恐れ、五稜郭へ敗走した。

新政府軍に千代田形を奪われた旧幕府海軍は回天丸と蟠竜丸のみとなっていた。蒸気機関を破壊された回天丸は意図的に陸地に乗り上げさせ、弁天台場とともに箱館湾防備の砲台とした。5月11日、蟠竜丸が新政府軍の朝陽丸を撃沈し、旧幕府軍の士気は大いに高まったが、砲弾を打ちつくした蟠竜丸も座礁の上、乗組員は上陸して弁天台場に合流。戦闘は箱館市街地に移る

一方、同日未明、豊安丸と飛龍丸に分乗した陸軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍700名が夜陰に紛れて箱館に近づいた。豊安丸の部隊は山背泊から上陸し、弁天台場の背後を脅かした。黒田直率の飛龍丸の部隊は寒川村付近に上陸し、絶壁をよじ登って箱館山の山頂に到達。山頂にいた旧幕府軍監視兵は驚いて遁走し、夜明けまでには箱館山を占領した。このとき、箱館にあって新政府軍の諜報活動などを務めていた遊軍隊が、箱館山薬師堂でこの奇襲部隊を迎え、山道の案内にあたった。遊軍隊は、多数の市民が参加したゲリラ部隊ともいえる組織で、旧幕府軍の市中掛の下役や弁天台場に隊士として潜入した者もいた。

箱館山に新政府軍現わるの報に接した箱館奉行・永井尚志は、弁天台場の守備を固めるとともに、瀧川充太郎が新選組、伝習士官隊を率いて箱館山へ向かった。しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、大森浜沖の陽春丸からの艦砲射撃もあって一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭まで後退。箱館市中を制圧した新政府軍は一本木関門に兵をとどめ、五稜郭、千代ヶ岡陣屋と対峙した。これによって孤立した弁天台場の救出に向かった土方歳三は、一本木関門付近で銃弾を受けて戦死。さらに副総裁・松平太郎が諸隊を率いて箱館奪還を試みるも失敗し、いよいよ失地回復は困難となり、戦闘は各陣地の篭城戦へ移行していく。

この間、箱館病院では院長の高松凌雲が、赤十字の精神で病院の非武装中立を謳い、敵味方の隔てなく戦傷者の治療に当たっていた。5月11日、新政府軍が病院内に乱入してきた。殺気立った新政府軍と患者を守ろうとする高松の間で押し問答が続いていたが、薩摩藩士・池田次郎兵衛が高松の主張を聞き入れ、病院の門前に「薩州隊改め」の墨書きを残して退いた。分院の高龍寺では非武装が徹底されておらず、松前藩士により数名が切り倒されている。

総攻撃が始まると、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。千代ヶ岡陣屋を守備していた小彰義隊長・渋沢成一郎が隊士とともに湯の川に遁走するなど、士官クラスまでが次々と戦線を離脱し、降伏した兵士の数は340余名にのぼった。5月12日には、五稜郭に対して箱館湾の新政府軍軍艦による艦砲射撃が始まる。

戊辰戦争終結
5月13日、新政府軍参謀・黒田清隆が箱館病院長の高松凌雲の仲介で榎本に降伏を勧告する。榎本はこれには応じなかったが、灰塵に帰するには惜しいとして榎本自身が翻訳した「万国海律全書」という本を黒田に届けさせた。これは、海事に関する国際法と外交に関する書物で、このとき黒田は、榎本が国際法に精通していることに感銘し、その後、榎本の助命に奔走することになる。

弁天台場は艦砲射撃と背後の上陸部隊の猛攻によく持ち堪えていたが、艦を失った海軍を収容していた弁天台場では兵糧が底を付き、5月15日、永井尚志以下240名が降伏する。同日、榎本は永井の口利きにより千代ヶ岡陣屋で軍監・田島圭蔵らと会見した。榎本は降伏勧告を改めて拒絶するが、五稜郭にいる傷病者の後送を申し入れた。新政府軍は攻撃を中断し、傷病者はその日のうちに湯の川へ送られるとともに、新政府軍の捕虜11名も送り返された。

五稜郭の前哨、千代ヶ岡陣屋にも降伏勧告の使者が訪れていたが、箱館奉行並・中島三郎助はこれを拒否した。5月16日、五稜郭からの撤退命令も拒否して、中島は浦賀与力時代の部下らとともに、死を覚悟して最後の抵抗をする。1時間の戦闘で守備隊は壊滅し、中島三郎助は2人の息子とともに戦死。これが箱館戦争最後の戦闘となった。千代ヶ岡陣屋陥落後、黒田は、「海律全書」の返礼として酒樽を五稜郭に送り届け、五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告した。これにより郭内は動揺し、衆議の結果、ついに降伏と決する。

翌17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の斥候所に出頭、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願した。しかし、黒田は、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかった。これ以上の戦闘継続は困難であった榎本が折れ、無条件降伏に同意。新政府軍が降伏の手順を明らかにする実行箇条の提出を要求してこの会談は終了した。その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には実行箇条を提出させた。

5月18日(グレゴリオ暦1869年6月27日)早朝、実行箇条に従い、榎本ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。なお、室蘭の開拓と守備に当たっていた開拓奉行・澤太郎左衛門以下250名は、22日に投降している。